更新日 : 06/28/2016
 
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●三木市有宝蔵文書

 本書は本要寺(三木市本町2丁目3−6)境内にある市宝蔵において旧三木町の人々が累代にわたって保存に努めてきた膨大な古文書を解読、編集したものです。
 この古文書は、すでに昭和24年から2年有余の歳月をかけ、三木町当局をはじめ関係者の努力によって整理分類し、一部が解読され昭和27年8月に「三木町有古文書」(130点の解読文、1606点の分類目録を内容とするA5判、224頁)として刊行されており、昭和29年三木市制を施行してからは「三木市有古文書」として継承し、毎年7月18日に「虫干し」を行うなど、大切に保存しているものです。
 古文書の解読作業は、昭和49年から数名の郷土史研究家らが本要寺において行い、17年後の平成3年に虫損など解読不可能なものを除き、1400点余りの解読を完了。その後、市では歴史的文化の振興に役立つ有意義な事業と位置付けし、平成4年度から出版事業に取り組み、解読原稿の整理、校正及び編集業務を「三木郷土史の会」に委託し、平成13年度に全8巻を完成しました。
  
好評発売中
 
第一巻(町政・幕政編)5,000円(税込)
第二巻(藩政・触書編)6,000円(税込)
第三巻(住民・土地・検地帳編)5,000円(税込)
第四巻(村方賦税・水利・山林編)5,000円(税込)
第五巻(産業編)5,000円(税込)
第六巻(町方賦役・金融編)5,000円(税込)
第七巻(惣年寄十河家・社寺編)5,000円(税込)
別 巻(地図・高札・補遺編/複製地図付き)5,000円(税込)

■体裁     
A5判/布製本・年史用紙使用/ケース入り
          (郵送の場合は、別途500円必要)

■発行者   三木市


★問い合わせ・郵送依頼先

   三木市企画管理部企画調整課 文書・法制グループ(市役所4階)
    〒673−0492 三木市上の丸町10番30号 TEL(0794)82−2000 (内)2443
 
三木市有宝蔵文書 第1巻の主な内容
町政編
  地子及び諸役免許などを記した秀吉の制札(天正8年正月17日、同年2月3日)2枚と、その後領主の交代によってこの免許を取り上げられようとするとその都度、町民がいかに苦労してこの地子及び諸役免許を保持してきたか、それらを記す文書が主なものである。
 例えば史料25宝永5年(1708)「芝町地子免許訴訟費用負担請書」(17ページ)のように組頭が連名で年寄りに「いままでどおり地子及び諸役が免許になるのなら旅費等はいくらかかっても指示どおりに出します」といった文書があり、必至で免許地を守ってきた様子を知ることができる。
 (同種の文書は滑原町、新町、上町、明石町、中町、下町の分もある。)
 また、史料63寛保2年(1742)の「三木町諸色明細帳控」(59ページ)によると、三木町居屋敷は、拾四町八反八畝拾八歩が拾か町の赦免地であり、この拾か町(大塚町、芝町、平山町、東条町、滑原町、新町、上町、中町、明石町、下町)の家数が514軒であることが記されているほか、諸職人家(大工、木引、樽屋、鍛冶屋、左官、たびヤなど)の軒数が記されている。そして「右ハ他国へ罷出 申候」とあるようにこれらの職人は他国へ働きに出ている(三木町に居る者もある)との記録もみえ、町民のデーターとして興味深い。

 その他、制札やこれらの文書などを保存するための「宝蔵」を元禄7年(1694)に初めて建て、享保16年(1731)に修復しており、「宝蔵御普請入用割帳」(155ページ)に費用の明細が事こまかに記録されている。
(例えば土台石の舟賃、材木板代、棟上祝儀など)

幕政編

 殿様巡見心得触書や巡見に際して御泊、買物など入用記録が主なものである。
 
・地子 (ちしともいう。) 田地や家地その他からの地代・地税のことで、一般には室町時代から江戸時代にかけて行われていた。
・御触書(おふれがき) 為政者の命令を庶民に伝えた通達
・御訴訟(ごそしょう) 訴訟といっても裁判という意味ではなく、不平・嘆き・希望などをいうこと。訴えること。
 
三木市有宝蔵文書 第2巻の主な内容
藩政編
 明石藩(第16代藩主・松平兵部大輔慶憲)領であった安政3年(1856)から安政5年(1858)にかけて、殿様の猪鹿狩りや川狩りに伴う諸入用帳、日記などの記録類が多い。(目録番号282「猪鹿御狩に付諸入用帳」から目録番号301「猪鹿御入用割帳」までは主として猪鹿狩りや川狩りの記録である。)
 例えば、安政3年3月の「猪鹿御入用割長」(目録番号301)をみると、◇川原御見分の節休んだ際の大餅代、壱匁七分四厘◇船頭12人賃並びに酒肴代とも弐拾弐匁八分◇つり道具並びにぞうり四足代六匁八分弐厘などというように商品やその価格がことこまかに記され、当時の様子をうかがう資料としてなかなか興味深い。
 また、安政3年3月の「大殿様御出付御陣屋所々繕書上帳」(目録番号246)には畳表14枚、雨戸15本、湯殿板壁弐間半、玄関襖張替など、その修繕箇所と代金が詳しく記されている。
 更に、天明6年(1786)9月の「家臣俸禄覚書」(目録番号304)は、上野国(こうずけのくに、現在の群馬県)館林藩(藩主・松平右近将監武厚の頃)の家老・御用人俸禄を記録したもの。例えば、藩詰家老は五百石であるが、江戸詰家老は七百石で二百石多い俸禄となっている。(この当時、三木町は館林藩の領地であった。)

触書編

 触書編とは、近世において為政者の命令を庶民に伝えた通達をいうが、ここにはあらゆる触書の写しが集められている。例えば「諸殺生禁止御触書写」「偽役人取締御触書写」「浪人取締御触書写」「婚礼風俗御触書写」「倹約御触書写」及び「若衆風紀取締御触書写」などがその主なものである。
 この中で安永3年(1774)の「浪人取締御触書写」(目録番号329)には、「近年村々江虚無僧修業之躰二而百姓にねだりケ間鋪儀申掛、或ハ旅宿を申付候様村役人抔江申故・・・・・・・」といって、浪人が虚無僧姿で百姓に物をねだったり村役人に宿を世話するようにいう者が横行しているので、これらを見つけたら村方にて差し押さえ役所へ連れて来るように通達を出している。
 また、寛政5年(1793)の「若衆風俗取締御触書写」(目録番号338イ)では、町内の若者や職人、弟子とも近年風俗よろしくないし、家業に精を出さず遊ぶことのみを考えている者が多いのでよく取り締まるようにとか、若者に悪いことを教える者があるが、これは甚だ心得違いである。そうではなくて孝行の道や家業に精を出すことを第一に申し聞かせるようにと一つ一つ項目を設けて通達している。
 更に、「婚礼風俗三木役所御触書写」(目録番号335)では、結婚式の披露宴や出産御祝、進物、配り物なども親類と向こう三軒両隣に限定するなど質素を旨とするよう戒めている。また、年忌法事などの料理も軽くし、逮夜客には膳部は無用で握り飯にしなさいと記している。
 こうした昔の資料を見ることによって、現在の私たちの生活を考える上で参考になることが多いと思われる。
  
三木市有宝蔵文書 第3巻の主な内容
住民編
 住民編の目録396から439までは、寛政2年(1790)から享和、文化、文政、天保、嘉永3年(1850)にかけての宗門改諸入用帳である。宗門改のため出張してきた役人の賄い費や諸経費など必要な費用を町や村ごとの住民の人数によって割当てた明細などを記した文書が主なものである。
 なお、宗門改は、江戸時代にキリスト教を禁止するために行われた制度で、信徒摘発のために作成された帳簿。寛永17年(1640)、宗門改役をおいて宗旨を調査したのにはじまる。記載方法は時期、地域によって異なるが、檀那寺、戸主以下奉公人を含む家族構成、年齢が書かれるのが一般的で、戸籍台帳としての機能も果たした。(※『日本史用語大辞典』1978年柏書房刊。「宗門改」「宗門人別帳」の項 参照)
 また、目録番号464から523までは、「家出して行方不明になったものを宗門人別帳から除籍してほしい。」と願い出た「除籍願書」などが主なものである。

土地編

 土地編は、土地にまつわる訴状や相論済状、家屋敷や家財を質入れする質入証文、田畑や山林などの譲渡状の証文が多い。しかも家屋敷を質入れして銀子を借用し、万一、期限までに返済できなかった場合は、「その家屋敷を貸主の勝手にしてよろしい」とした証文がある。
 その一例をあげると、目録番号550 ハ 「家屋敷質入証文」に瓦葺建壱軒、瓦葺土蔵壱ケ所などを記し「右之家屋敷、諸建物共、我等所持ニ候得共、 (中略)貴殿方へ質物ニ差入、銀子四貫目借用申所実正ニ候、 (中略) 壱ケ月ニ壱歩宛之加利足、来ル子ノ八月切ニ元利無遅滞返済可仕候、万一右相対之限月遅滞候ハ、 (中略)無異議早々家明ケ相渡し可申候  (以下略)」と一札入れた証文がある。

検地帳編

 検地とは、近世を通して領主が行った土地の測量調査。年貢徴収と農民支配を強化するために実施された。田畑に竿縄を入れて反別や石高を定め、村単位で行われた。その結果を記入した公的な土地台帳を「検地帳」又は「水帳」という。(※『日本史用語大辞典』1978年柏書房刊。「検地」「検地帳」の項 参照)
 目録番号572から606までは、三木町屋敷検地帳写をはじめ、中町、上町、明石町、長屋町、前田町、平山町、大塚町、平田町、加佐町、大村町、下町屋敷順帳などで、比較的虫損も少ない。ただ、中には耕作者の変更などを記した貼紙がいっぱいあり、何年もの間、年貢徴収のために検地帳が使われたことがわかる。
 また、検地帳の基本的な記入事項を目録番号582の「大塚町検地帳」でみてみると、上から検地の対象となる地字(ちあざ)、ここでは「むかい山」、対象地のタテとヨコの長さ「拾弐間三尺、八間壱尺五寸」、土地の種類・等級とその面積「下田三畝拾三歩」、そして耕作人の名前「忠兵衛」、それに此分米「五斗四升九合」などが記されている。
 以下同様にして一筆ごとに調べた結果を書き連ねていったものが、この帳簿の内容である。(※「分米」とは、石高(生産高)のこと。)
 
三木市有宝蔵文書 第4巻の主な内容
村方賦税編
 村方賦税編は、目録番号607から662までで、主として年貢免状(その年の年貢を割り付けた文書)である。中でも、加佐町年貢免状が多く、一番古いのは寛文12年(1672)で、今から326年前のものである。
 このうち、今から300年前の元禄11年(1698)の加佐町御成箇割付目録(目録番号634・20ページ)をみると、

高(生産高)は三百八拾九石九斗五升壱合で、
うち永川成(荒地)や検見引(けみびき・その年の損毛分を引くこと)など拾弐石三升八合を差し引いた
残 三百七拾七石九斗壱升三合に
四ツ八分六厘(四割八分六厘)即ち百八拾三石六斗六升六合を納めること、


と記した文書で、その納わけ(内訳)は、

拾八石三斗六升七合十分一大豆銀納(注1)
六拾壱石弐斗弐升弐合三分一銀納(注2)
百四石七升七合米納

 上記の通りに決めたので、村中百姓立会い、甲乙無く割当いたし、きたる極月(ごくげつ・12月)20日までに皆済するよう命じたものである。生産高の4割8分、約50%を年貢(税金)として取られるわけで、300年前もいかに現在以上に税金が厳しかったかがうかがえる史料である。
 なお、こうした毎年の生産高によって課す方法のほかに、三木郡の各村々に寛延4年(1751)から5年間、一定率の年貢割合を決めた文書もある(目録番号639・26ページ)が、この中に五ツ、即ち5割を超す村々も相当あり、厳しいことこの上ない。
水利編

 水利編は、目録番号663から727までで、文字通り水利に関わる訴状、裁許状、訴訟費用負担請書などが主なものである。特に六ケ井堰、高木井堰のほか、隣村との水争いの文書がほとんどといってよい。そのほか、明和6年(1769)の川除普請(かわよけぶしん・注3)出入覚書(目録番号698・161ページ)のように、人足割賦を決めた文書、あるいは寛保2年(1742)の金剛寺谷川筋修築取極書(目録番号699・162ページ)のように丈夫に修築するために、堤の長さや馬踏(ばふみ・注4)の高さ、左右の幅、川さらいは毎年3月に行うようになど、具体的に示した文書もある。
 今日では、米余りが言われ、減反政策がとられているが、昔は農業を営む上で、最も大切な水利問題で争いが起こり、また水確保に腐心したことを示す貴重な文書が残されていて興味深い。
山林編

 山林編は、目録番号728から774までで、山林内の下草、落葉などの採取願書、村ごとの山林境界下知状、伐採中止願書、松茸山関係文書などである。

注1 江戸時代、石(こく)代納の一種。十分の一を大豆で納めるもの。
注2 近世、村高の三分の一は畑部分と概算し、銀に換算して納めさせた。
注3 堤防を堅固にし、川底をさらい、河川の氾濫を防ぐ工事をすること。
注4 江戸時代の河川で、堤防の上を人馬が通行するように平らになった部分のこと。堤防を作る  ときは、まずこの馬踏の寸法から決めたという
 
三木市有宝蔵文書第5巻【産業編】の主な内容
 第5巻は「産業編」で、目録番号は775から949までの175点を収録したものである。このうち目録番号775から811までの37点は、秤(はかり)・分銅(ふんどう)・枡(ます)に関する文書、目録番号821から849までの29点は酒造関係文書、目録番号850から867までの18点は川船関係文書である。そのほか目録番号868以降は、干鰯(ほしか)商、石灰売捌(うりさばき)、菜種油、古手屋、質屋、前挽(まえびき)職人、曲尺(かねじゃく)、飛脚、大工、頼母子(たのもし)講などの文書で、文字どおり当時(江戸時代)の産業経済活動に関する文書を収録している。

 まず、秤・分銅・枡関係文書は、秤や分銅の員数とその諸入用割方帳、秤改御触などが主なものである。例えば、「村方秤ナキ答書」(目録番号776・16ページ)には、現代文に直すと、

 「このたび、分銅調査につき、私共村々で新古分銅を所持している者がないかどうか調べたが、私共は百姓ゆえ一切所持しておりません。どうか大庄屋様から分銅調査役人へ申し上げてください。万一、隠していることが、外からお聞きになった場合、いかように仰せられてもよろしいです。後日のため、一札入れておきます。」


と、寛政元年(1784)9月に長屋・久留美・加佐・平田・大村・和田・正法寺の七か村の庄屋が大庄屋に一札入れている。この当時、秤の所持を厳しく調査していた様子の一端がうかがえる文書である。

 「酒造株名前替並譲請渡書上帳」(目録番号838・361ページ)には、酒造株の分として、

酒造株高
四拾石
大塚町鈴鹿屋喜兵衛
四拾石
平山町京屋弥兵衛
四拾石
中町一文字屋庄右衛門
百弐拾石
中町山崎屋源兵衛
百弐拾石
中町山崎屋吉兵衛
百弐拾石
上町銭屋与一左衛門

と記され、当時三木町には、この6軒の酒造家があり、天明8年(1788)から享保元年(1801)までの名前替えなどの経過を書き添え、三木役所へ提出している。そのほか、寛政4年(1792)「造酒三分一触書」(目録番号829・345ページ)のように風雨出水等で作物が傷んだので、酒造りは三分の一にするとした触書もある。また、「滑原町大坂屋八十七酒造道具御改帳」(目録番号837・358ページ)には六尺桶・五尺桶・杓(しゃく)・酒袋などすべての道具類58点を書き記した文書もあって、酒造りの歴史を知る上で興味深い。
 「飛脚人数増加願書写」(目録番号914・489ページ・文化11年(1814))を見ると、「近年、鍛冶職も増え、商売用向も増加してきたので、三木町と大坂を往復する飛脚人を増やしてほしい」とか、文化年間に摂津や丹波等へ働きに行く「大工職人定宿帳」などのほか、三木川船関係文書や干鰯商、菜種油作高書上帳、質屋仲間帳、前挽職免許願書、曲尺株仲間入届書、頼母子講関係文書などを収録している。江戸時代の三木町の人々の暮らしぶりを知る貴重な資料集といえる。

(注)株仲間 = 江戸時代、江戸・京都・大坂などで、商工業者が幕府の認可を得て結成した同業組合(「広辞苑」より)
 
三木市有宝蔵文書 第6巻【町方賦役・金融編】の主な内容
 第六巻は「町方賦役・金融編」で、目録番号は950から1260までの311点を収録したものである。このうち目録番号を950から1195までの246点が「町方賦役編」で、1196から1260までの65点が「金融編」となっている。
町方賦役編

 町方賦役編は、そのほとんどが「上下割之帳」「十ケ町割之帳」である。この「上下」「十ケ町」とは、上五ケ町(大塚町、芝町、平山町、滑原町、東条町)と下五ケ町(新町、上町、明石町、中町、下町)のことで、1年間の入用額の明細及び上下の割合を示した帳面である。
  目録番号の最初950にある寛延3年(1750)の「上下割之帳」をみると、
 一 四匁 是ハ御高札場繕入用 上町八兵衛
 一 弐匁二分五厘 是ハ御廻状池野村へ五度持参人 平山町吉左衛門

というように、何のために、誰それへ、いくら支払ったなど事細かに記され、この合計が百五拾四匁九分弐厘となり、これを上五ケ町が約四割の六拾壱匁九分七厘、下五ケ町が約六割の九拾弐匁九分五厘というように割り振っている。
 このほか、
 白米五升 三匁弐分五厘、酒三升 弐匁七分、白みそ 壱匁五分、薪 弐匁
など、会食の際の賄い内容などが具体的に記されていて興味深い。
金融編

 金融編は、「新古金銀割合次第書」、「新金銀通用触書」及び「銀子預り手形」の写しのほか、「銀子借用証文」が中心である。
 ここでは、借用証文の一例を読み下し文に直して紹介する。目次番号1238にある文政9年(1826)12月の「借用申銀子之事」には次のように記されている。
 一 銀壱貫三百目 ただし、借用元銀也
 右の銀子は、我々、確かに受け取り借用しました。この上は、貴殿に一か月に
 つき壱分半ずつの利息を加え、元利滞りなくきっと返済します。万一、連印の
 うち、不埒の者があるか又は差し支えのある者ができたときは、残る印鑑を押
 した者が遅滞なく元利返済します。後日のため、銀子借用連印証文とします。

とういう文面で、年末でお金が必要なことがあったのであろうかと推測されるが、美嚢郡三木下町の五人の者が連名で加東郡樫村吉兵衛から借用している。

 以上のように、江戸時代後期の三木町の庶民の暮らしぶりを垣間見ることができる文書の数々を収録したもので、近世文書の貴重な資料といえる。
 
三木市有宝蔵文書 第7巻【惣年寄十河家・社寺編】の主な内容
 第七巻は「惣年寄十河家(そうどしよりそごうけ)・社寺編」で、目録番号は1261から1568までの308点を収録したものである。このうち目録番号1261から1365までの105点が「惣年寄十河家編」で、1366から1568までの203点が「社寺編」となっている。(「虫損解読不能」も若干ある。)
惣年寄十河家編

 惣年寄十河家編は、大坂蔵屋敷の役人・藤沢弥平太から十河家に宛てた諸々の書状をはじめ、前挽屋五郎右衛門の書状が比較的多い。そのほか町奉行・都筑十平の書状・借用状のほか、目録番号1325の「俳号免許状」や1326の「生花免許状」もあるなど、バラエティに富んだ証文や文書がある。
 また、目録番号1331「道中独案内図」は、東海道、中仙道、木曽街道などの各地名(大坂・守口・伏見など)とその距離、駄賃などを入れたものがあるが、年号の表記がないのが残念である。
社寺編

 社寺編は、大宮八幡宮や正入寺、月輪寺、光明寺、善福寺、羽場宝寿院、晴龍寺、法界寺などの社寺の由来や普請開帳触書、争論などの諸記録が主なものである。そのほか、雨乞や初午の入用帳、身振狂言など、事細かな記録類が多くを占めている。
 例えば、目録番号1432の嘉永6年(1853)7月25日より二夜三日降雨を祈った「雨乞入用割方帳」を見ると、
 一、銀札四匁弐分五厘  酒代            角屋弥三右衛門
 一、百三拾六文      干物代           木屋平兵衛
 一、八拾四文        半紙代           かさや藤兵衛
 一、弐匁弐分        さらし代          角屋嘉助
 一、五匁           明石行仁兵衛飛脚賃  わた屋治右衛門

など、すべての入用が記されていて、興味深い。

 以上のように、江戸時代の三木町惣年寄十河家文書と社寺関係文書を通じて、当時の庶民の暮らしぶりを垣間見ることができる文書の数々を収録したもので、近世庶民史を研究する上で貴重な資料といえる。
(注)惣年寄=江戸時代、町奉行の支配を受け、御触の令達、町年寄・町役人の
         監督など、民政に当たった人
   町奉行=上命を奉じて公事・行事を執行する人
   初午=二月の初の午の日
   身振狂言=身振りばかりで演ずる歌舞伎狂言。特に子供の首振り芝居
(「広辞苑」より)
 
三木市有宝蔵文書 別巻【地図・高札・補遺編】の主な内容
 今回の別巻は「地図・高札・補遺編」で、目録番号1569から1606までの38点、無番地図2点並びに未整理の文書の中から分類項目に沿って解読されたものを「補遺」として287点を収録したものである。
 地図編36点のうち11点は、カラー印刷で複製し、別図として添付している。また、高札編の4点は、文字の損耗が著しいく、判読できないため、「解読不能」とした。 このほか、今回の別巻は、この文書の最終巻となるため、巻頭に加古房夫三木市長の「発刊を終えて」、また巻末には監修者の藤原昭三氏の「宝蔵文書全巻完結を顧みて」を掲載したほか、第1巻から第7巻までの「総目次」を収録した。

 まず「地図編」では、地図をカラー印刷で複製した点が別巻の大きな特長である。二百数十年を経た今でも、鮮明な色彩が残っており、当時の地形と現在を比較してみるのも興味深い。例えば、「三木町絵図」(宝暦2年(1752)、複製@)では、地子免許の家数517軒の所有者名などが記されているほか、晴龍寺や本要寺、光明寺などの名称、位置も現在地とほぼ同様で、楽しく見ることができる。また、「加佐村加佐町立会絵図」(元禄14年(1701)、複製A)では、現在の状況と比較して、山陽自動車道がどのルートを通っているのかなどを想像するのもおもしろい。
 次に「補遺編」では、未整理文書の中から、資料として役立つと思われるものを町政編、藩政編などの分類項目に沿って解読し、掲載したものである。例えば、「米高値ニ付売買之通達」(町政編)や「鹿狩りニ付山留触書」(触書編)、「駕籠賃控」(住民編)、「相撲興業届書」(同)など、諸届書、願書、借用書などの日常生活に密着したものが主たるものである。

 以上のように、この文書は、第1巻から別巻までを通じ、江戸時代の三木町の人々の暮らしぶりが、事細かく記されており、近世庶民史を研究する上で貴重な資料といえる。 
 
 
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